「進路指導室」と書かれたプレートの掛かっている部屋の前で、木暮海都(みと)は腕組みをして壁により掛かっていた。壁と背中に挟まれた、背中の半ばまで伸びている真っ直ぐで少しぱさついた黒髪を左手の甲で引き出し、払い退ける。五月の日差しが片側の中庭に面した窓から入り込む廊下は、それでも日陰に居るとひんやりとしている。

 軽い音を立てて、進路指導室の自動ドアが開いた。十四歳の少女にしては背の高い、赤茶けた髪の目の大きな少女が中から出てくる。その少女は黒目がちの目で彼女より少し背の高い海都を見上げた。
「こんなとこで何やってんの? 海都」

「副部長をお迎えに」キツネ目を細めて海都は笑った。赤毛を少年の様に短く切っている少女――荒井素(もと)――は、海都と同じ吹奏楽部のトランペッターで副部長だった。「――っていうのは嘘」

「え?」大きな目をさらに素は大きく広げた。睫が長い。細い首を少し左に傾ける。派手ではないが、人目を惹くものがある少女だった。
「たまにはサボらない? いっつも真面目に出てるんだしさ」
「良いの? 部長自らそんな事言って」肩をすくめ、茶化す様に素は言う。作った笑顔が可愛らしい。太めの眉が気の強さを表しているようだったが、それでもあたしより百倍可愛いわ、と海都は考えた。

「あたしは早退だもん。今まで出てたんだから」
「あ、ズルい」素が抗議の声を上げる。
「付き合いなよ、ジュースくらいおごるって。公園にでも行こう、今日は良い風だよ」海都は言うと、素の返事を待たず昇降口の方へ歩き出した。

 

 都営団地の真ん中にある小さな公園では、何組かの親子連れが遊んでいるだけで、全体としてはひっそりとしていた。公園だけではない。団地全体が静かだった。
「ここも変わったよね」大きな木の陰に入りながら海都は言う。「あたし達が子供の頃は、もっと沢山小さな子がうろうろしていたのに」
「仕方がないよ、子供が減ってるんだから」小声で素が応える。「それにあたし達、まだ子供だよ?」
「そうだね」少し呆れながら海都は笑顔を作った。腰に手を当てながら、別の木の陰になっているブランコに視線を遣る。「じゃあ、ブランコにでも乗る? 子供なんでしょ」
「そうだね! うわぁ、久し振り」真に受けて、素はブランコに向かって走り出した。冗談のつもりだったのに、と一瞬呆気にとられてから海都は溜息を付き、顔に掛かっていた手を指の長い手で払い退けると、素の後に続いた。素は既にブランコに腰を下ろして、幼い子供の様に海都を呼んでいる。

「ここの公園、小学生の頃よく来たよねー。放課後に。賢治とか直人とさ」キイキイ音を立てながら、素はブランコを揺らす。賢治は素と海都の幼馴染み、直人は素の従兄弟で二人とも今でも同じ中学だった。
「そうだね」一応相槌をうっておいてから、海都は真顔になった。「どうして呼び出されてたの? あんた、何もしてないでしょう」
 素は少し俯き、口元だけで小さな笑みを作った。寂しそうにも見える。「分かってるでしょ?」

「……賢治ね。あいつ。補導されたって聞いたけど、何やったの?」
「渋谷のホテル街で真夜中に女の子と歩いてたんだって」
「キミとは関係ないんじゃない?」隣のブランコに腰を下ろしながら、海都は冷静に尋ねた。こういう時はキツネ目が更にきつくなると自覚している。それでも、訊かなければならなかった。
「岡先生、心配してるんだよ。どうして賢治がそんなことするのか、荒井さん心当たりはない? って。どうにかしたいと思ってるんだよ」あくまでも穏やかな口調で、薄くリップクリームが塗られた口元の笑みは崩さずに素は続ける。柔らかそうな赤毛が、風に僅かに揺れた。
「どうしてあんたに訊くのよ。お門違いじゃない」

「……確かに、心当たりが無いわけじゃないから」静かに素は語る。それから、おもむろに顔を上げ、今度は目を細めて顔中に笑みを浮かべ、海都を見上げた。華のある、明るい笑顔だった。「でも、教えてやんなかったよ。あたし、教師なんて大嫌い」

「嘘」短く海都は言い切った。ブランコの鎖を肘の部分に挟み、筋肉質の腕を組む。「キミ、先生方のこと嫌ったりしないじゃない。っていうか、キミ、嫌いな人間なんて居ないでしょ?」
 曖昧な笑顔を浮かべ、素は俯いた。図星だな、と海都は思った。
「あんたみたいに人間疑わないでいると、疲れるだろうね」横目で素を眺めながら、海都は言った。こういう時は怖ろしく冷淡な顔付きをしているのだろうと思う。元から愛想の無い顔立ちだ。

「だって、矛盾してるじゃない」素の顔付きが一変する。眉が吊り上がり、眉根に深い皺が寄る。黒目がちの目が見開かれる。「自分達で賢治を除け者にしておきながら、どうしたの、なんて。訊く方がおかしい。賢治がどれだけ苦しんでるか、知ろうともしないくせに……」
「苦しんでる?」無機的に素の言葉を海都は反復した。こういった時は、この少女には感情を発散させてやった方が良い。

「自分が父親が居なくて、おまけに母親は水商売でアル中でジャンキーで、男の人に貰ったお金で暮らして居るって事にどれだけ賢治が負い目を感じていると思ってるの?」何かが弾けた様に、素は勢いよく話し出した。「それでも、賢治はお母さんのことが好きで、当たり前だよね、たった一人の家族なんだから、でもまともに生きてくれなんて言えなくて、言ってしまったらお母さんが傷付くことあいつ分かってるから、優しいから言えなくて、ああ俺も結局まともには生きられないんだなって、あいつがどれだけ自分に失望してるか、親がそういう職業だからって賢治のこと嫌がる人、沢山居るのよ、そういうの、賢治全部分かってるんだから、……知ったって、何もしてくれないくせに……」
 最後は消え入るように素は呟いた。

 母親のことで賢治が負い目を感じているのは海都も知っている。小学生の頃、賢治は母親の職業をからかった同級生に大怪我をさせたことがある。その時の同級生の言葉は海都の耳にもこびりついている。おまえのかーちゃん、エッチな仕事してるんだろ。男の人と、エッチなことして、お金貰ってるんだろ? ……それでも。覚悟にも似た気持ちを抱え、冷淡に海都は尋ねた。「賢治自身の弱さは? 這い上がろうとしないのは、彼自身の弱さじゃないの?」

 勢いよく素が顔を上げた。赤茶けた前髪が、白い額に斜めに掛かる。少し伸び過ぎた前髪の間から、大きな瞳が海都を真っ直ぐ見つめる。口元がへの字に歪んで、眉の先が下がっていた。

「あんたが全部背負う必要は無いわ。賢治は自分で這い上がらなきゃいけない」落ち着くように自分に言い聞かせながら海都は先を続けた。「キミのそんな顔、賢治だって見たくないよ」
 素の唇がほんの僅かに開き、目が潤む。何かを言いそうになったが、言葉が出てこないようだった。
「あたしはあんたの笑った顔が好き。それだけよ」

 黙って素は俯いた。白い、骨張った指がブランコの鉄臭い鎖を握り締める。頬を伝った透明の滴が、地面に落ちて黒い円形の染みを作った。海都は黙って手を伸ばすと、素の赤茶けた柔らかい髪の毛を撫でてやった。

―了―

 

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