賢治はテーブルの上に新聞を広げたまま横目で素を見た。新聞なんか最初から読むつもりは無く、そこに居る為の言い訳として広げているだけだった。パソコンに向かいながら仕事で使う資料の整理をしている素が何度も何度も首筋や肩に手をやる様子をずっと見ていた。
「肩凝ってんの?」横目で素の後ろ姿を眺めながら、賢治は尋ねた。
 緩慢な動作で素は振り返る。まるでたった今、賢治の存在に気付いたかの様だった。
「何でそんな事訊くの?」
「さっきから肩とか首とかいじってばっかり」
 そうね、と素は疲れた笑いを浮かべた。でもいつもの事よ。賢治はほんの少し自分の左の眉が吊り上がった事を自覚していた。彼は素と違って感情が直ぐ表情に出てしまう性質で、左の眉が上がるのは面白くない事や気に入らない事が有った時だった。――率直に言うと、、素の反応は賢治にとって嫌悪すべきものだった。腐臭の様な不吉な何かを力の無い笑顔が覆い隠している。
「疲れてるなら疲れてるって言えよ」少し強い口調で賢治は言った。隠されている感情を剥き出しにしたかった。傷口の上に固まってしまった膿を剥がす様に。
「そんな事無いよ」細い首を傾けて、素は微笑む。相変わらず可愛いと賢治は思い、そしてその笑顔に子供の様にときめいている自分が情いとも思ったが、ここで騙されてはいけないのだと気を取り直した。傷が塞がった様に見えるのは表面だけで、その内側はじゅくじゅくと湿っていて脈動と共に疼くものだ。
「少し休めよ」敢えて命令口調で賢治は言った。休んだら、などという言い方をしても、彼女は聞き入れない事は分かっていた。その頑なな拒否が何なのか賢治は未だに分からなかったし、――分かってはいけないような気もしていた。
 意外な事に、素は彼の薦めに素直に従った。そうね、と言って少しパソコンをいじった後、賢治の向かいに座る。白いシャツが以前よりだぶついている様に見える。多分、この1〜2ヶ月で大分痩せている、と賢治はかなり隙間の出来ている襟元を眺めながら考えた。ストレスがかかると、物が食べられなくなる性質なのだ。
「紅茶は?」新聞を折り畳むと、席を立ちながら賢治は言った。どちらかが仕事で忙しい時は、暇な方が忙しい人間に楽をさせる、というのが二人の共同生活の暗黙の了解だった。
「ジャスミンティー無かったっけ」賢治の置いた新聞に手を伸ばしながら、素は言う。
「多分まだあったと思うけれどな」
「じゃあそれがいいな」
 穏やかな顔付きで新聞を広げている素を少し見つめてから、賢治は台所に向かった。2人で暮らすには、少し広過ぎる感の有るマンションの一室を少し鬱陶しく感じる時も賢治にはあった。息詰まらない程度に生活していけるだけの広さが有れば、あまりゆとりなどというものは彼は求めなかった。必要なものを必要なだけ。それが彼の基本的な生活方針だった。もっとも、仕事や他のことに関しては別である。
この若干「広過ぎる」部屋は、賢治の勤める会社の寮だった。賢治と素は同い年の幼馴染みで、高校を卒業してから賢治が今の会社に勤め、素が大学に通い始めた年から一緒に暮らしていた。近々結婚予定の婚約者が居る、という理由で賢治は家族向けの寮の一室を希望したのだった。結局、結婚したのは彼女が大学を卒業した年の春だったが、それまで会社の方からは何も言われなかった。賢治も黙っていた。他のスタッフともそれなりに上手くやっていて、彼は今の仕事が気に入っていた。
 綺麗に片付いた台所の戸棚の一つを開ける。色々な種類の紅茶の瓶が隙間無く並んでいた。賢治は出来るだけ持ち物を少なくしたい人間でこうやって詰め込むのは嫌いだったが、素は一つの物に凝るとそればかり集めてきちんと整理する事が好きだった。奥の方の瓶を取り出す為に手前の瓶を全部出して、また並べ直す彼女に面倒ではないかと賢治が尋ねたところ、楽しいからいい、とあっけらかんと答えた。そういえば、昔からあいつの鞄には細々とした物が色々と入っていたっけ、と賢治は考えた。しかもそれらは見事な程きちんと整理されていた。
 賢治は素とは正反対で、ひどい時には何も持たずに学校に行ったりして呆れられていた。教科書類は全部机とロッカーの中に入れてあったので、部活の無い日は賢治は荷物が無かった。社会人になってからもその癖は変わらず、よく手ぶらで出勤していた。仕事が警備員なので、大して持っていく物も無いのだ。スーツも着なかった。ジーンズか上着のポケットに財布と煙草とライター、通勤の間だけ電源を入れる携帯電話を突っ込んで、それでお終いだった(電話は会社からの連絡さえ受けられれば良く、そして素は滅多な事では電話をしてこなかった。他の電話は賢治にとっては出るのも面倒だった)。
 そして、彼の想像通りジャスミンティーは棚の一番奥に入っていた。手前の瓶をあらかた出してしまって、最後にそれを見付けて賢治は大きな溜息をついた。

「なあ」白い湯気の立つ、外側まで熱が伝わって熱くなったマグカップを置きながら賢治は尋ねた。「紅茶、あんなにあったら、奥の方の出す時に面倒じゃねぇ?」
「別に?」気が抜ける程にこやかに素は切り返す。賢治の方が言葉を詰まらせて、それだけだった。お互い迷惑がかからなければ日常生活の些細な事には口出ししない、という風に2人はやってきていた。約束をしたわけでは無くただ何も語らずにそういう生活が出来る、それは彼が素と一緒に暮らしている理由の1つでもあった。
 素はマグカップ片手に新聞を読んでいた。賢治はジャスミンティーを「クスリ臭ぇな」と思いながら――だからといって嫌いなわけではないので、黙ってそれを飲みながら彼女を見ていた。春から初夏に移り変わろうとしている季節の、明るい昼の日差しで透けている赤茶けた髪の毛(彼女はそれを少年の様に短くしていた)や、同じ色の長い睫や、女にしては骨張ったそれでもやはり細い指、血管が透けている色の白い手の甲など。それから彼は何時も白くて細い首筋を見て、欲情しそうになっていた。
 だが、賢治は逆に顔を顰めた。素が片方の手を首筋に伸ばして揉んだからだった。多分、殆ど無意識のうちに行われたと思われる動作だからこそ、彼は苛立った。
 賢治はマグカップを置いて立ち上がると、彼女の後ろに回った。
「何?」
 振り返ろうとする素に「いいから新聞読んでろ」と言うと、賢治は腕を伸ばして素のシャツのボタンを開け始めた。驚いた様に素は抗議の声を上げるが、構わずに真ん中程まで開けて肩を露出させる。邪魔な下着の紐は肩から滑り落とす。そうして首の付け根の辺りを少し力を入れて親指で押すと、途端に「あいたたた」と声が上がった。ゆっくりと肩全体を指の腹で押していく。信じられない程に固かった。
「何でさ、ここまで凝ってるのに放っておくんだよ。湿布貼るとかしろよ」
 少し怒った様に賢治が言うと素は「んー」と呟き、それ以上は何も言わなかった。
 肩甲骨の下の辺りを押すと、そこもすっかり固くなっていた。肩と言うより、首から背中にかけて全体的に筋肉が固まってしまっている様だった。ゆっくりと一番ひどい肩から賢治はマッサージを始めた。
「ナースってさ、腰痛になるっていうのはよく聞くけど、肩も凝るの?」
 素は答えない。少し俯いて、黙っている。多分、新聞はもう読んでいないだろうというのは直ぐに分かった。
 暫く肩を揉んでいて筋肉がほんの少しだけ柔らかくなったので、首を左手で掴む様にして横の方を親指で揉んでいると、不意に素が口を開いた。
「疾病利益、って知ってる?」
 その内容より、彼女が口を開いたという事実に賢治は驚いて、何も答が出せなかった。黙って首を揉み続けていると彼女は続けた。
「疾病利得、とも言うんだけれど。例えば、宿題の提出の前の日にお腹が痛くなったとするじゃない? そうしたら、宿題は出さなくても許されるでしょ。そういう風に、病気になった事で得られるメリットの事なんだけれどね」
 ふうん、と賢治は相槌をうった。彼女に必要な反応はそれだけで、内容について何か尋ねたり感想を述べたりする必要は無い。普段は決して饒舌ではないのに自分から積極的に話題を持ち出してくるの素は、語りたいだけなのだという事を賢治は経験から知っていた。
「あたしの肩凝りも一緒。肩凝りがひどくなって頭痛とかしてきて、もう食欲も無くなるくらい気分が悪くなったりするとさ、仕事がはかどらなくても、友達との約束を断っても誰にも責められないじゃない。……あんたも優しくしてくれるし」
 素の顔は見えない。どんな顔をしているのだろう、と思う。何時もの様に穏やかな微笑を浮かべているのか、それとも辛そうな表情をしているのか。
「オレ、そんなにいっつも優しくないかな」
「優しいって言うか……違うな……、んー、あんたいっつも優しいもんね、そうだな、あたしが何にも考えないで甘えられるでしょ、具合が悪いと」
 ああ、そうか、と賢治は納得した。素は他人に甘えるには言い訳が必要だと思っているのだった。そんな事は無いのに、と賢治は少し悲しくなった。
「損な性格だな」独り言の様に、呟く。
「え?」
「甘える時くらい、素直に甘えろよ」
「んー……」
 首を一通り揉むと、賢治は白いシャツを下げて背中の筋肉を解し始めた。筋肉痛くらいなら経験が有ったが彼は肩が凝った事の無い人間だったので、どうやったらここまで固くなるのか見当が付かなかった。
「自分がきつい時に他人に寄りかかられると、ますますきついじゃない」
 また、脈絡も無く素が語り出す。彼女の特徴だった。慣れていない人間はこれで面食らう事が多かったが、賢治はとっくに慣れっこになっていた。彼女はこういった喋り方をするというのが当たり前になっていた。
「オレは今、別にきつくねぇよ?」慎重に、言葉を選びながら話す。全てが壊れてしまうのにはたった一言で充分だった。細心の注意を払って、穏やかに語る。傷口を塞ぐ膿を取り除く事は必要だったが、血を流してはいけない。ただ、傷口に新鮮な空気を送るだけで良いのだ。彼は実際穏やかな気持ちで居たし、嘘ではなかった。ただ、少し気になるだけだった。素の――薄い壁を一枚隔てた様な語り方が賢治は無性に気になった。
「寄りかかってばっかりいると、自分で何も処理出来なくなっちゃうから」当たり前の様で難しい内容を含んだ言葉を素は口にする。
「自分で抱え切れなくなってコケちゃ、意味ねぇじゃん」言ってしまってから、あまりにはっきり言い過ぎたかと賢治は思う。だが、素は別段傷付いた素振りも見せなかった。本当は傷付いていたのかもしれないが。しっかりしている様で、実はひどく脆い部分のある女だった。賢治はそれを知っていたから、彼女を壊さないようにしなければいけないといつも思っていた。気を遣う、というのとは違ったが、彼女の感情の微妙な変化に非常に気を配っていた。
 そのまま暫く背中を揉んでいると、やっと筋肉が少し柔らかくなった。白い肌に赤く指の跡が幾つも残って、何だか痛々しかった。「お終い」
 賢治が言うと、素は顔を上に向けて可愛らしく微笑んで、「ありがと」と言った。眉が太い所為か素はよく可愛げの無い女に見られるが、笑うと案外可愛いいのだった(少なくとも賢治にとっては)。
 素の向かいに座ると、賢治はぬるくなったジャスミンティーに口を付けた。妙な味だなと思うが、別に飲めない程不味いわけでもなかった。オレは基本的に好き嫌いは無かった。素も好き嫌いは無く、2人は比較的健康的な食生活をしていた。だから、少なくとも素の肩凝りは食事の偏りとかそういうものが原因では無い。
 ジャスミンティーを飲み終わって、素は椅子の上で膝を抱えている。そういう格好をすると、彼女がまだ小学生くらいだった頃から其程変わっていない様な錯覚を賢治は覚えた。だが、実際は彼女は明らかに変わっていて、多分彼の中の印象が変わっていないというだけなのだろう。
「……あんたが居るとさ」また、不意に素が口を開いた。「仕事が終わって、嫌な事もいっぱい有って、疲れる事もいっぱい有って、納得出来ない事もいっぱい有って、でも、取り敢えずうちに帰ればあんたが居るって思ったら、……何て言うのかな、割とどうでも良くなっちゃうんだよね。……色々、仕事の事とかで悩んでても。今日は賢治の仕事が早く終わる筈だから食事を作っててくれる、今日は遅いからあたしが作る、そういう事考えるだけでも、全然気が晴れるんだよね」
 賢治はマグカップを口元に運んだまま、じっと彼女を見つめていた。
「あんたの顔見るとすごくほっとするし、……あんたの事考えているだけでも、結構幸せ、かな」
 素はにこりともせず、考え込む様な顔付きでそう言った。しかし賢治は彼女がそういう事を滅多に口にしない人間だと知っていたから、ひどく嬉しかった。大体彼と素の関係は、素はその気が無かったのに賢治はがベタ惚れ、そのうちに素が根負けした様な形で始まったのだった。
「家庭に問題の有る人は大変だよね。帰っても心が安まらないんだから。あたしは幸せなんだろうな……多分」
「オレは幸せだけれどね」さらりと、切り返す。
 素は大きく目を見開いて賢治を見た。何だか情けない表情をしていた。可笑しくなって賢治は言った。「何だよ、今更」
 自分の腕を掴むと、素は顔を逸らした。小声で呟く。「……あたし、……あんまり、良い奥さんじゃ……ないから」
「どーでもいいよ、そんなの」賢治は敢えて俯いた。凝視したのでは、強過ぎる。言葉の重みに素が押し潰されてしまう。「お前が居れば、後はどーでもいいや」
「変なの」小さく、素が呟く。
「変じゃねぇよ」声の強さを落として賢治は応える。「オレはそうなの」
「……あたしは」素の声が僅かに掠れる。
「どーでもいいよ、お前がどう思ってても」自然と賢治は笑っていた。可笑しくなったわけではなく、自分でも良く分からなかった。だが、彼は幸福な微笑を浮かべていた。「別にさ、お前に同じ様に考えろって言うつもりねぇし。まぁ、……好きにしろよ」
 赤茶けた髪の女は膝に顔を埋めた。賢治は顔を上げて素を見つめた。軽く鼻を啜る音が聞こえた。
「素直じゃねぇんだから」マグカップに残っていたジャスミンティーを飲み干し、賢治は言った。「しんどい時は最初から泣けよ。そうした方が楽だろ」
 素は応えない。素直に泣ける程無邪気な女では無い事はよく分かっていた。だからこそ、敢えて彼は言葉にした。
「職場じゃまずいかもしれねぇけどよ」わざと淡々とした口調で続ける。「うちでくらい泣けよ。オレ大丈夫だから」
 空になったマグカップを置いて、黙っていた。これ以上喋る必要が無い事も分かっていた。後は待つしかなかった。
 少し顔を上げて、素が目元を拭う。ティッシュペーパーを1枚取ると、鼻をかんだ。
「……仕事、きついの?」下らない質問だと思いながら賢治は尋ねた。ナースがきつい職業だというのは分かり切っていた。
 下唇を噛み、素は視線を逸らした。長い睫毛に水滴が付いている。賢治はジーンズのポケットから煙草を出しながら、「まあいいけれど」と言った。素はもう1枚ティッシュペーパーを取ると、鼻をかんだ。
「キスして」
 煙草を1本銜えて火を付けようとした時、出し抜けに素が言った。
「キスしてよ」
 賢治は煙草を銜えたまま、泣き出しそうな顔をしている素を見つめ、それから火を付けて深く肺まで煙を吸い込んだ。そしてそれを全部吐き出してしまうと、立ち上がって素の側に行く。膝を抱えたまま、子供のように素が見上げていた。賢治は空いている手をテーブルに付くと、そっと唇を重ねた。
 口紅を塗らない素の唇は、何の匂いもない透明のリップクリームの滑らかで少しべたつく感触がする。ゆっくりと、唇を吸う。素の手が彼の首筋を撫でる。骨張った見た目とは違って、意外に柔らかい。繊細に、指先で暫く触れてから掌を這わせる。同じ様に賢治も素の首素を撫で、それから鎖骨の辺りを触りながら、やっぱり痩せたなと思った。以前よりも骨が浮き出ている感触があった。そのまま胸元に手を滑らせようとすると、素は体を離した。
「駄目」
「何で?」上体を起こしながら賢治は尋ねた。
「やる事が残ってるの」
 賢治は小さく溜息を付きながら煙草を消した。大体において、何時も彼がお預けを喰らっている。
 素が背の高い男を見上げて、ふと真顔になって言った。「まだその癖、治らないんだね」
「癖?」賢治は呟くと、自分がたった今煙草を押し付けた右手の甲を見た。「……ああ、そうだな」
 素は何も言わなかった。

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