素がピアノの前に座っていた。実家から持ってきた、古い、でも黒光りのするアップライトピアノの前に座っていた。
 賢治が黙って見ていると、素は鍵盤の上に手を置いた。そして、ただ静かに押した。これっぽっちも意味の無い音の集合が響く。
「ピアノは一番好きだわ」おもむろに素が口を開いた。「世界で一番、このピアノが好きよ」
 内心、恋人のその言葉に動揺を覚えながら、しかし平生の口調を保って聞き返す。「世界で一番?」
「そうよ、こんなに綺麗な物は無いわ」
 見た目なのか、それとも音なのか、としばし考え込んでしまった。ピアノの音の善し悪しなど、賢治は分からなかったからである。
「あたしの弾き方通りの音しか出ない、本当にその通りの音しか」
 鍵盤に置かれていた手を退けると、今度はもっと低い音の集合を鳴らす。
「こうやって鳴らす時さえ、本当に神経を使ってあげないと綺麗な音は鳴らない、でもこちらが綺麗な音を出すように弾いてあげれば、絶対に綺麗な音が出るの。嘘も誤魔化しも妥協も無いわ」
「昔から嘘が嫌いだったよな」
 素は応えなかった。


 新しい生活に入る時、どうしてもピアノを持ってくる、と言って聞かなかった。普段あまり我が儘など言うことの無い素の、珍しく強硬な主張に漠然と厭な予感を感じたが、今やその予感は現実と成りつつあった。
「ピアノを弾いていると、一番ほっとするわ」
「ふうん」いよいよ怪しい雰囲気になってきたぞ、と賢治は思った。何故、新婚生活にこんな邪魔が入らなければならないのか。
「オレは分からん」率直に言った。少し乱暴過ぎるかとも思ったが、最も誠実な対応であることも確かだった。
「構わないわ」あっさりと素は言った。


「誰の為に弾くの?」ふと思いついた疑問が形を伴って飛び出した。
「あたしの為よ」
 不意に振り返って告げた顔は、これまでに見たことが無い程に厳しく、その一瞬に受けた衝撃は自分自身でも理解し難い領域のものに近かった。
「誰が何と言おうと構わない、あたしにしか出せない、あたしだけの音楽よ」
 続いた言葉は更に厳しいものだった。左の頬が引きつった。苦々しく思いながら、しかしどうすることも出来なかった。自分では制御不可能な悪癖の一つだった。
 そんな賢治の表情の変化に気付いているのか、それとも知っていて無視しているのか、素は更に続けた。
「あたしの音楽はあたしの中に最初からあるの、誰にだって変えようが無いのよ。あたしはただその音楽を忠実に音にして再現するだけ」
「そりゃズルいな」
 また思考より先に唇が動き、言葉が零れた。こういうものの言い方は止めなきゃな、と思ってから一秒も経たないうちに、今更直しようもない、と賢治は諦めていた。身に染みついた習癖である。


「そうね、でもあたしだってたまには我が儘になるのよ」そう穏やかに語った素の表情は、一転して優しさに溢れていた。これもまた、あまり見たことの無い顔だった。半ば無意識のうちに、敵意が生まれた。こんなに穏やかな顔をさせるピアノが憎かった。どれだけ愛しても、与えても、受け入れても、自分にはこんな顔は殆ど見せたことが無かったのに。しかしこのピアノは、今まで幾度となくこの慈しみに溢れた表情を見続けてきたに違いなかった。自分が一番欲しかったものを。そう思うだけで、叩き壊しても飽き足らないような気がした。
「子供の頃はあまりピアノは好きじゃなかったの、母が勝手に習わせたものだったから。でも、或る時あんまり練習しないものだから、母が怒ってもう止めろ、って言ったのよ。でもあたしは止めなかった。確かに熱心に練習したりはしなかったわ、でもピアノは好きだったの。母の望む方法とは違ったけれど、あたしはあたしなりにピアノが好きだったのよ。後にも先にも母に逆らったのは、あの時だけだったわ」そう言うと、愉快そうに笑った。


 無力感に賢治は囚われていた。それはあまりにも狡いではないか。人と物のこれだけ強い関係の間に、どうやって人である自分が入り込めばいいのか、見当がつかなかった。なので、もう一度呟いた。「そりゃ、ズルい話だな」
「そうかしら?」無邪気な笑顔で、ピアノに向き合う。そしておもむろに聞き覚えのあるフレーズを弾き始めた。これは知っている、と思った、ムグロスフスキー? 作曲者の名前は思い出せなかったが、確か曲名は「展覧会の絵」だった。オーケストラ版の方が有名になっているけれど、本当はピアノの曲なのよ。ピアノでも、とても素敵なのよ。本当に嬉しそうに、そう言ったのを覚えている。


 短い曲を弾き終えると、深々と息を吸い込んだ。そして目を閉じて、そのまま語った。「自分が出せる一番綺麗な音を、幾つも重ねたり並べたりしていくの。自分が一番綺麗だと思うものを集めていくのよ。そうすると、とても素敵な音楽が出来上がるの」
 その横顔はかつて「展覧会の絵」について語った時と同じく、幸福に満ちているように思われた。言葉を差し挟む余地など無く、賢治は押し黙った。
「あんただって、サッカーがあるじゃない?」
 さすがに哀れになったのか、優しい言葉がかけられた。こりゃまた随分惨めだ、と思いながら賢治は椅子の背に肘をついた。
「そうかなあ」もう止めてしまったんだ、オレは、と頭の隅の方で考えていた。日常から切り離された場所で、仲間と言葉すら介さず一瞬で分かり合え、共に戦った時間は既に遥か彼方に置き去ってきたものになっていた。あの頃は楽しかったよ、確かに。
「同じことじゃないかしら。ドリブルにしろパスにしろ、」最高じゃないプレーをしたら、たちまち相手にやられちゃうでしょ?」
「まあ、そうでも無いんだけれどね」曖昧な返事をしてから、思い直し、付け足した。「でもまあ、よっぽど下手な相手じゃない限り、そうかな。いっつも全力でやってるから、分からねえな」
「それがいいとこよ」素は朗らかに笑った。何故か少し嬉しかった。「何でも全力投球なのよね」
「何でもってわけじゃ無えよ」少なくとも学業に全力投球をしたことは無い、という確信があったので、そう答えた。
「でも自分の納得のいかないことはしないでしょ?」
「我が儘なんだよ」賢治は吐き捨てた。充分自覚はあった。


「あたしは妥協の塊だわ」少し悲しそうに微笑みながら小声で言った。「妥協しなかったのはピアノだけ、妥協してしまったら許してくれなかったのもピアノだけ」
「オレにも?」問いは自然と低い声音に成っていった。「妥協してたのか?」
 目を瞑ってピアノに向かったまま、素は天を仰いだ。「分からない」


 そうだ、という言葉を待っていたつもりは無かった。しかし、事実として少なからず自分が落胆していることに気付き、驚いていた。妥協されていた覚えは無かったが、本人がそうだというならば、そうなのだろう。無理矢理納得させようと自分自身が懸命に努力していたが、納得がいかないと不満を唱える心の方が強かった。
「でも、あんたと離れたくはなかった、これは確かよ」


 驚いて背中を見詰めると、気付いているのかいないのか、素は楽しそうな調子で続けた。
「多分、どこかであんたと離れるっていう選択肢があって、そっちを選んでいたら、それは多分物凄い妥協で、そうしたらずっと後悔していたんじゃないかしら。今までは一緒にいたから、後悔もしていない」そしておもむろに振り返り、賢治を見て意味ありげな笑顔を見せた。「答えになってない?」
 こりゃあズルいぜ、と内心思ったが、口にはしなかった。問題をすり替えられたような気もしたが、一緒に居て後悔したことは無い、と言われるのは悪い気分ではなかった。
 少し意地悪をしたくなり、言った。「これから後悔するかもしれないぜ」
「うーん」小さく顔をしかめ、首を傾げた。可能性としては低そうだし、第一そんな予感があったら、さっさと離れちゃうわ、きっと。あたしって意外と冷淡なのよ」
「知ってるよ」言い返すと、素は弾けたように笑い出した。
 黒く鈍く光るピアノを眺めながら、賢治はピアノがあることでこれだけ和やかな時間を持てるのなら、これはこれで悪くないかな、と思い始めていた。