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目が覚めると、素は保護室の中に居た。
周りは、ただ真っ白い壁と床と天井で、部屋の隅に僅かに床にはめ込まれた和式の便器が設置されている。
白いマットレスの上に素は寝ていた。カバーも何も掛かっていない、本当にただのマットレスだ。体には薄い毛布が一枚掛けられていて、やはりその毛布にもカバーは掛かっていない。保護室用だ、直ぐに素は気付いた。患者が寝具を破壊したりすることを防ぐ為に、極力最低限の機能だけを持たせた、ただ寝る為だけの。患者が冷えなければ、凍えなければいいのだ。美しさなど、無用だった。ただ要求されるのは、清潔さだけだった。
ちょっとまって、素は自問した。あたしがどうして保護室に入れられているのよ、ここは「患者」の入る部屋なのに。
あたしは「患者」じゃない!
賢治ならまだ判るけれど、と小声で呟きながら素は体を起こした。長時間同じ姿勢で寝ていたのか、体のあちこちが動かしづらく、鈍く痛む。「薬」を飲まされたのかしら、それとも注射? 偏頭痛のするこめかみを押さえながら、素は考えた。どちらも記憶にはなかった。そもそも、あたしは「患者」じゃないんだから。「患者」は、賢治よ。
ふと、素は自分の右手を見た。あかぎれが沢山出来て、ひび割れた指先には絆創膏が巻かれていた。兼井さん、何なの、その手は。そんなに傷を作っていたら、感染の原因に成りかねないわよ。病棟長の言葉が記憶の蓄積の中から蘇る。病棟用の消毒剤が肌に合わず、手が荒れてしまうのだと伝えられず、済みませんとだけ応えたのは、いつだったか。
あたしは、「患者」じゃなかった筈なのに。
何もないマットレスの上に座ったまま、素は考えた。あたしは看護師なのに。精神科で働いている看護師なのに。あたしは、いつも外から保護室の鍵をかけていた。分厚い鉄の扉を閉めて。中から「患者」が奇声を上げながら、開放を要求して扉を叩く……。そんな光景には慣れていた。……あたしは、「患者」じゃない。最後に素は、口に出して呟いた。
確かに、夫の賢治は日常的に素に暴力を振るっていた。しかし素はその暴力の痕跡を他人に悟られないように巧妙に隠匿する技を長い年月の間に身に付けていた。確かに、家庭内暴力と言われればそうだったろうが、しかしそれは素が望んでいる状態でもあった。賢治が居なければ、自分は恐らく狂っていただろうという自覚はあった。時々、自分の胸の内を垣間見てしまって、恐ろしく成ることがあった。何もない。この部屋と同じで、白くて、がらんとして、ただ光だけが差していて、……何もない。ただ、白い。その白さと明るさと独りで向き合っていれば、いずれ発狂するだろうということは判っていた。
でも、あたしはまだ「患者」じゃないはずだわ。素は頭を振った。おかしいわ、こんなの。あたしは、狂っていなかった筈なのに。その前の晩に何があろうと、次の日には何事も無かったように笑顔で白衣を着て出勤していたのに。あたしはまだ笑えたのに。まだ、看護師で居られた筈なのに。何時の間に「患者」になったの?
部屋の壁の一面は柵格子にになっていて、その向こうには短い廊下があって、その向こうには、飾りの様に巧妙に偽装した鉄格子のはまった広い窓があった。その窓は、どんなに柵格子の間から患者が手を伸ばしても、けっして届かない様に設置されていることを、素はよく知っていた。直接「患者」と接するのが危険である時、看護士達がその窓と柵格子の間だの短い廊下から水や食事や「薬」を差し入れることも。
待って、待って、おかしいわ。
目眩をこらえながら素は顔をしかめた。誰も居ない。誰も見ていない(監視カメラくらいはついているかもしれなかったが)。
あたしはいつ、「患者」になったの?
それだけが、どう考えても判らなかった。保護室に居る、ということは、逸れ相応の何事かが起こった筈だった。あたしはやってしまったの? いよいよ、やってしまったの? 手首を切ったの? 胸を刺したの? 首を吊ろうとしたの? 睡眠薬を大量に飲んだの? ――それとも?
違う、違う。素は強く首を横に振った。それは、賢治がしてくれる。全部賢治がしてくれる。あたしを殴ってくれる、首を絞めてくれる、気が遠くなる程。あたしを抱いて、あたしを犯す。愛していると囁きながら。あたしを呼びながら。
だから、ここに居るとしたら、素ではなくて賢治が居る筈だった。素が自分自身の手を汚すことは無かった。
殴ってくれない男なんて、不安で一緒に居られない、そう考えるのとほぼ同時にその思考自体が酷く歪んでいることに気付いてしまって、素は両手で顔を覆った。疲労感があった。「薬」が多いのかもしれない、と考えた。「薬」を適量よりも多く服用させられた場合、多くの「患者」は、体のだるさや重さを訴えた。
そう考えると、確かに自分は「患者」たる素質を十二分に持ち合わせているのかもしれない、と素がぼんやり考え始めた時、聞き慣れた声がした。
「素」
目を開くと――その時、初めて素は自分が眠っていたことに気付いた――、自分はいつものダブルベッドに横になっていて、隣には賢治が体を起こして座っていた。
「どうした? うなされてたぞ」
状況を説明しようとして、素は自分の喉が酷く乾燥していることに気付いた。声が出ず、唇だけが虚しく動く。
「悪い夢でもみた?」
見上げると、賢治は少し眠たげだが、限りなく優しい目つきで素を見ていた。少し外側が下がった、本人は余り好んでいない目で。ベッドサイドのランプがつけられていて、黄色みの強い穏やかな光がぼんやりと二人の周囲だけを照らしていた。後は、静かな闇だった。
「患者」になった夢を見た、と言おうとしたが、言葉が喉に張り付いて出て来なかった。恐らく、賢治に「患者」と言っても判らないだろうと思い、素は咄嗟に巧みに言い換えをした。「患者さんになって、保護室に入ってる夢をみたの」
賢治は小さく笑った。「それで看護師が俺、ってか?」
その言葉を聞いて、素は少なからず動揺した。まるで胸の内を見透かされたような気がしたのだった。自分の無意識の中に沈んでいた濁った何かをすくい上げられた様な気がした。小声で素は呟いた。「そんなことはなかったわ」
「そっか」
賢治の笑顔はあくまでも屈託のないものだった。胃の辺りに鋭い痛みを感じ、素は布団から出た。
「どうした?」
「水、飲んでくる」
振り返ることも無く台所に向かうと、素は戸棚から胃薬を取り出し、コップに水をくんで白い錠剤を一錠飲み込んだ。胃痙攣を起こした様だった。
しかし、薬を飲んだところで瞬間的に効果が出るわけでもなく、腹痛は治まらなかった。腹を押さえてしゃがみ込んでいると、いつの間にか賢治が横に来ていた。
「また、腹痛いんだろ」
大きな体を屈めて、賢治が囁く様に訊いてくる。訊かないで、訊かないで、という言葉が喉元まで込み上げてきた。あんたさえ無視してくれれば、気付かずにいてくれれば、あたしはこの痛みを「無かったこと」に出来る。痛みなど、認知されなければそもそも存在し得ないのだ。そして素は自分の痛みに対して意識的に認知しないようにすることが出来た。それは慣れてしまうと案外簡単なことだった。
「横になった方が良い、立てるか?」優しく賢治は声をかけてくる。
頭を横に振りながら、ゆっくりと素は立ち上がった。顔を歪めたくはなかった。胃が痛い。痛い、痛い、違う、痛くない。こんなのは、痛くない。痛いうちに入らない。こんなのは、痛くない――。
「何で無理するかなあ」腕を取りながら、賢治が呟く。そこが分からないのなら、気付かないでくれ、と言いたい気持ちを抑えて、素は立ち上がった。
半分抱えられるようにベッド脇まで戻った所で、素は賢治を見上げると、はっきりと言った。「あんたは狡い」
途端に賢治の顔付きが変わった。穏やかに優しく見下ろしてた目が全く正反対の冷たいものに変わり、表情自体が硬く険しくなる。
ああ、と素は笑った。それが引き金だった。思い切り左頬が殴られた。ベッドに倒れ込んだ後に、腹に一度、二度。拳だったか膝だったかはよく分からなかった。腹部を押さえて、素は咳き込んだ。余り痛みは感じなかった。元々胃が痛かったので、どちらの痛みなのかよく分からなかった。むしろ、左頬の方がズキズキと響く痛みがあった。冷やさなくちゃ、と咳き込みながら素は考えた。明日は仕事に行かなきゃ行けないから、今晩のうちに冷やしておかないと。そして明日は入念に化粧を塗り込む必要があった。
賢治はぼんやりとただ立っていた。他に為す術を知らない子供の様だった。子供のままなのだ、と素は思った。賢治は基本的には、自分の衝動が制御出来ずに、ただ無闇に周りに居る者全てに暴力を振るい、問題児扱いされていた小学生の頃のままなのだった。しかしそれは彼自身が長期間受けていた暴力に端を発するものだったので、矯正はなかなか困難だった。何とか社会適応出来ているだけまだましだわ、と素は考えた。それが賢治が「患者」にならずに済んでいる、唯一にして最大の理由だった。
「明日、仕事?」呼吸を整えながら、素は起きあがった。口の中に酸っぱい胃液が広がっていた。
「昼からな」妙に疲れたような口調で賢治は応えた。
「そう」布団にもぐり込みながら、素は尋ねた。「今、何時?」
「三時半だ」時計に目をやりながら賢治は答えた。やはり彼は酷く疲労している様に見えた。
「ねえ」声をかけると、疎ましいものを見るような冷たい目つきで、しかし少し甘えるようなものを含んだ視線で賢治は無言で素を見詰めた。
「こっち来てよ」
賢治は音を立てて、唾液を飲み下した。
「一緒に寝てよ」
腕を差し伸べると、賢治は無言で指を絡めてきた。大きな、肉厚の無骨な手で、あかぎれだらけの手の甲を包んだ。「荒れてるな」
そして賢治は布団に入ってきた。電気スタンドを消すと、辺りは暗闇になった。その中で素は賢治の腕を探り当てると、しっかりと抱きついて目を閉じた。賢治は素の頭を撫でていた。
―了―
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