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ハイヒールは嫌いだった。
奈津子は生まれつき左の足首に骨の奇形があって非常に関節がゆるく、踵の高い靴を履くとすぐに転んでしまうので、ハイヒールを履くことが出来なかった。夏は最近踵の極低いミュールが流行ったりしているので助かっていたが、冬になってブーツの季節になると、奈津子には履く靴がなかった。男のような、不格好なハーフブーツか軍靴のような厳ついブーツを履くしかなかった。
ミニスカートも嫌いだった。
ゆるい左足首の関節を固定する為に、テーピングか包帯は欠かすことが出来なかった。医者には装具の装着を勧められていたが、あまりにも見た目が悪いので、奈津子は断固として拒否していた。
年末も嫌いだった。
恋人と過ごすクリスマス、家族と過ごす正月、そんなものにはここ何年も縁がなかった。前につき合っていた男は仕事だと嘘をついて毎年クリスマスには他の女と逢っていたし、実家には脳梗塞の後遺症で半ば寝たきりの母親とその母を介護している父親しか居なかった。妹は結婚してとうに実家を出ていた。来年の夏には、子供が生まれる予定だ。
冬にミニスカートに踵の高いブーツを履いて街中を歩く自分と同じ年頃の女性を見ると、羨ましいなどという感情を通り越した憎しみの念のようなものが奈津子の中には生まれていた。幸せそうに肩を寄せて歩く恋人にも。そういった人々を見る度、お前はこういった幸せとは永遠に隔絶されているのだ、と思い知らされている気がして、無性に苛立った。
洋介からは何の連絡もない。
それまで働き続けてこつこつ貯めた三百万円を持って行かれたことに悔いはない。渡した時から、どうせ帰ってこないだろうという予感はあった。他に女が居ることも薄々感じていた。それでも構わなかった。許せないのは、彼が何の連絡もよこさず、行方知れずになったことだった。彼との子供は三ヶ月になろうとしていたが、仕方なく二ヶ月前に堕胎した。責めるつもりも、結婚してくれと迫るつもりもなかった。しかし、彼は居なくなった。
白い息を吐きながらコンビニの前で信号が変わるのを待っていると、奈津子はいつもどうしようもない苛立ちに嘖まれるのだった。
勉め始めて五年が過ぎ、仕事にも慣れていた。しかし、洋介にそれまでの貯金の大部分を渡してしまった為、今から転職したり新たに勉強し直すには資金が足りなかった。高齢の両親も、いつまた倒れるかも分からず、頼るどころか奈津子が面倒をみるしかない事態も十分あり得た。
この足さえまともならば、と思ったことも数知れずある。しかし、そう思ったところでゆるい足首が治るわけでもないので、いつも最後には溜め息をつくだけだった。
その日も、いつまで病棟で働き続けられるだろう、と思いながら、奈津子は白い息を吐いて星々の輝く冬の夜空を見上げていた。目の前の幹線道路はいつも交通量が多く、辺りは排気ガスの臭いがうっすらと立ち込めている。
帰ったら洋介の携帯電話にかけてみようか――、いや、どうせ出ないに決まっているのだ。メールの返事も帰ってこなくなっていた。エラーメッセージは来ないので、メールアドレスは変わっていないらしかったが、どれだけどんな内容のメールを送っても、返信はなかった。金を返せと言うつもりはない。堕ろした子供の話をするつもりもない。隠していた女のことを詰問するつもりもない。ただ、どうして嘘をつくなら最後まで騙してくれなかったの、と……、いや、そんな話もする必要はなかった。今日も寒いね、明日はどうするの? とありふれた世間話がしたいだけだった。
来年の春になれば、主任試験を今度受けてみないか、という話が来ることは分かっていた。いっそのこと、思い切って訪問看護部門への移動を願い出てみようか、どうせこの足では長くは病棟では勤められない。もうすぐ丸五年、よく頑張った、そう考えていると、やっと信号が変わった。
白衣は好きだった。
皆同じ物を着ているので美人も醜女もあまり関係なく、しかもどんな人でもそれなりに格好がつく。足下は似たようなナースシューズだ。踵は低い物が殆どである。聴診器を首にかけてワゴンを押して颯爽と歩くと、まるで自分が大変仕事が出来る人間のような錯覚を感じることが出来た。
それだけに、家に帰ると惨めだった。
病院から地下鉄で二駅の独身寮に、就職してからずっと住み続けている。自分の部屋を借りることに憧れはあったが、貯金をすることを考えると、寮を出ることに踏ん切りがつかなかった。
奈津子の両親はずっと肉屋をしていたが、母親が倒れてからは店をたたんでいた。奈津子や妹には父は決して言わないが、貯蓄は両親が死ぬまでの生活費を捻出する程は無かった。母親がもっと具合が悪くなったり、父親が倒れたりしたら、奈津子が経済的な面倒をみるしかない。妹の夫は気だての良い男だったが、収入のあまり良くないフリーの編集者だった。まして子供が生まれるとなれば、自分達の生活だけで精一杯の筈だった。
ひとりで部屋に帰り、白衣を脱ぎ、作り置きしておいた夕食を食べ、ビールを飲み、テレビを見ながら煙草を吹かす。そのうちに、胃が痛くなる。風呂に入って横になっても眠れず、やっと寝付いてからも何度も夜中や早朝に目が覚める。次の日の午前中いっぱいは頭が重い。
洋介さえ連絡をくれれば、もう少しましな筈だった。
今更彼に何を求めるつもりもなかった。ただ、声を聞いて、顔を見て、その場限りでも体目当てでもいい、その腕の中に抱かれたかった。
しかし、洋介は今どこで何をしているかさえ分からなかった。
時々、冬の冷たい乾燥した風と一緒に、「死んでしまえ」という声が奈津子の頭の中を吹き抜けていくことがあった。簡単なことだった。いつも、病院を出てから信号待ちをしている幹線道路の向こう側にあるマンションの最上階から飛び降りてしまえばいい。頭蓋骨の中身を脳外科で勤める奈津子は見慣れていた。頭蓋骨が割れて、中身のあの白い物体が潰れて飛び散るだけ、ただそれだけなのだ。もしかしたら、鮮やかな赤い血も沢山流れ出るかもしれない。でも、それだけだ。いつも採血で使う静脈から採る血液は赤黒かったが、時折医師が動脈から採血する動脈血は、思わずどきっとさせられる程に鮮やかな赤をしていた。
簡単なことよ、と小雨の降るその日も信号が変わるのを待ちながら奈津子は考えていた。心停止も呼吸停止も一度に訪れる。
何度飛び降りても死ねない夢を何度か見たことがあった。あれこそ悪夢と呼ぶに相応しいものだわ、と奈津子は考えた。落ちた衝撃は確かに感じるのに、自分の体にはかすり傷一つついていないのだった。止めようとする家族(何故かいつも夢の中では母親が元気で奈津子を追いかけて走ってくるのだった)や友人を振り切り振り切り、やっとの思いで飛び降りるのに。
「死んでしまえ」と、今日も風が奈津子の中を吹き抜けた。
あなたさえよければいい、というのではなく、あなたが笑うように、わたしも笑っていたい、と好きなシンガーソングライターの言葉を思い出しながら、それは貴女が幸せになれたからよ、この温もりを一生忘れないと思った相手と結婚して、思いがけず子供にまで恵まれてしまったからよ、そう思いながら奈津子は寝た切りの小柄な老婦人のおむつを替えていた。その老婦人は羞恥心からかおむつを替えられるのをいつも嫌がり、「止めて下さい、止めて下さい」と叫ぶのだったが、四肢が麻痺してしまっているので、無理矢理状態を起こす以外に抵抗する術はなく、奈津子は彼女の膝の下に腕を差し入れてころんとベッドの上に寝かせると、さっさとおむつを替えてしまうのだった。
もし本当に彼女がそれでいいというなら、おむつをずっと替えないでいたい、と奈津子は思う時があった。勿論そうすれば陰部はとんでもなく不潔になるだろうし、悪臭が漂うことは分かり切っていたが、「止めて下さい」と叫び抵抗する老婦人相手に無理矢理おむつ交換をおこなうことは、どうにも割り切れない気持ちの悪さを伴った。自分は彼女の為を思ってやっているだけなのに、どうして嫌がられなければならないのか。奈津子はまるで自分が極悪人でとても非道なことをしているような気分になり、ついで自分がそのような気分にさせられることにたいして、やや理不尽とも言える怒りを覚えるのだった。あんたが嫌だったら、あたしは喜んで止めるわよ。そんな言葉を投げかけたくなった。
それに比べて、事故で脳を損傷し、自分の名前を連呼して徘徊し、尿便を所構わずしている四十代の男性の相手をしている方が奈津子は気が楽だった。何をしても何を語りかけても彼は自分の名前しか言わないからである。家族が彼の面倒を見るのはとても難しいだろう。全身状態は安定しているので、彼は近いうちに精神科に転院する予定だった。非常に手がかかる患者だったので転院は大歓迎だったが、彼のおむつ交換をしながら、他愛もない話を一方的にしたり、たまに仕事の愚痴をこぼしたりするのは案外楽しかったので、奈津子は彼が居なくなってしまうことを内心では少し残念に思っていた。
その日も明るい窓際で奈津子は彼の便がたっぷり入ったおむつを外していた。するとふと「死んでしまえ」という声が、風も無いのに奈津子の中を通り抜けていった。ふと顔を上げると、脳の壊れてしまった男が、ぱっちりとした大きな目で、じっと奈津子を見つめていた。そして彼はいつも通り自分の名前をおうむ返しに繰り返すのだった。
声は何故か病院を出て、信号待ちをしていても止まることは無かった。わずかに頭の片隅に残った理性が、帰らないと駄目よ、あなたが帰らなければ、誰がモルモットのみーちゃんの面倒を見るの、と語りかけるのだったが、モルモットの世話など誰でも出来る、というのもまた厳然たる事実だった。「死んでしまえ」「死んでしまえ」「死んでしまえ」――。声は止むことがなかった。そして、奈津子は悟った。今こそ、夢の中で果たせなかったあのことを実行する時なのだ。不格好な靴を履いた自分の足下から視線を上げると、白いマンションが見えた。信号が変わる。奈津子は仕事で疲れて上手く動かない左足を前に進めた。
了
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