私は狂っているのかもしれない、と彼女は呟いた。聞く者も居なかった。全部殺してしまったのだ。彼女が仕掛けた、たった一つの爆弾で。
 それは、呆れる程に単純な仕掛けだった。普通にごくありふれた店の棚に並んでいる物品を組み合わせれば出来る物だった。簡単な仕事だ、と彼女は思った。


 彼女には身内が居なかった。母親は彼女の目の前で燃えさかる炎に飛び込み、父親とは戦乱の中で生き別れた。焼かれた半身は白地に赤い十字を染め抜いた旗を翻した病院で癒して貰ったが、しかし生き抜く手段までは与えてくれなかったので、彼女はひとりで生きて行かねばならなかった。幸いにも彼女は人を傷付けたり殺めたりすることに何の逡巡も覚えなかったので、自ら戦場に舞い戻った。金になることなら何でもやった。それが毎日の糧を稼ぐ、つまり生き延びる為の方法だった。


 彼はやはり他人を殺すことに何の躊躇いも感じない人間だった。初めて彼と彼女が出会ったのは、ある小さなゲリラの部隊のキャンプでのことだった。彼はその辺りのゲリラ組織の連中にはよく名前を知られている男で、彼女も聞いたことくらいはあった。しかし、実際に会ってみて彼があまりに若いので驚いた。彼女と幾つも違わないようだった。
 彼女もやはり同じゲリラの組織に雇われていた。単なる兵隊としてであって、別段特殊な能力は要求されなかった。まるで道具のように最前線に送り出されて、相手を殺して、運が良ければ戻ってこれる。死んだらそれまでだった。金で雇われた傭兵の躯を憎しみの余り吊して晒す者は居ても、弔ってくれる者など居ない。もっとも死んでしまえば自分の体がどうなろうと分かるわけはないのだから、彼女はそんなことは微塵も気にしてはいなかった。


 そんな感情の入り込む隙間など無い毎日の中、塹壕の中で男が囁いた。
「おい」
 彼女は驚いて男の顔を見た。それは彼女の耳の底に残る幼い日の懐かしい響きに酷似していたからである。
「お前、日本人か?」
 それは間違いなく彼女の父親、そして彼女自身がかつて語っていた言葉だった。長らくその言葉を聞いていなかったのが、驚いたことに彼女はその意味を完全に理解することが出来た。しかし同じ言葉は唇からは出て来ず、彼女は黙って頷いた。実際には母親は現地の人間だったが、彼女は母親のことをあまり詳しく知らなかったので、取り敢えず自分は日本人だと思うことにしていたのだった。
「兼井研究所の生き残りか?」
 今度聞こえたのは、あまりに彼女の個人的な記憶に近い単語だった。それは一種おぞましい響きを伴っていたので、彼女は自分の頬が歪むのを感じた。
「そうなんだな」男は低い声で囁いた。初めて彼女はこの男が怖いと思った。誰かにそんな感情を持ったこと自体、久し振りのことだった。


 彼は単に「櫻井の息子」と呼ばれていた。それは彼が著名なカメラマンである日本人の養子であるという噂が信じられていたからであった。彼は現地人の子で、戦場で孤児になっていたところを櫻井が拾って養子にした、という話が一般的には信じられていた。しかし彼女はそんな話は全く信じていなかった。日本人がそんなことをするような気質を持ち合わせた民族では無い、ということをよく知っていたからである。彼女の知っている日本人は、未だに鎖国時代のような内向性を持ち、他民族とは関わろうとしない人間達の集団であった。だから、その櫻井とかいう男とその養子らしい少年の美談も出任せだと思っていた。
「あんた、本当に櫻井の養子なのか?」自分の口から流暢な日本語が出てきたことに少し驚きながら彼女は尋ねた。
「やっぱりな」彼は小声で呟くと、それから彼女の質問に答えた。「俺は櫻井の子供だよ、養子だけれど」
「嘘だと思ってた」独り言を漏らすと、彼女は今自分が戦場の最前線に居ることを思い出した。事実、先程から塹壕の近くに砲弾の破片が飛んできていた。


「これじゃあ進めないな」他人事のように彼は言った。
「今回は分が悪い」分が悪い、などという高等な日本語を使ったことに我ながら感心しながら、彼女は応じた。
「かといって退けないしな」
「踏ん張るしかないさ」小銃に銃弾が装填されていることを確認しながら、彼女は言った。ゲリラの部隊で支給される銃は信頼性の面でとても使えた物ではなかったので、彼女のような傭兵は自前の銃を用意していた。
「日本に帰らないのか」外の様子をうかがいながら彼は言った。銃弾が直ぐ側に当たったらしく、土の細かい塊が降ってきた。
「親は死んだ、帰る所なんかねえよ」男連中の中で生活してきたので、彼女は現地の男言葉をすっかり覚えてしまっていた。女言葉はよく分からなかった。その所為か、久し振りに語る日本語まで男言葉になってしまっていた。
「そうか」彼はあっさりそう言っただけだった。


 一瞬、銃声が途切れた。
「名前、何ていうの?」彼女の口から出たのは、彼女自身にも意外な質問だった。
 彼は不思議そうな表情を浮かべて彼女を見たが、直ぐにまた前方から大量の銃弾が降ってきたので、身をすくめて銃を構えた。何か言ったようだったが、聞き取れなかった。
「え?」彼女が聞き返すと、彼は強い口調で言い返した。
「泉!」
「何が?」
「名前だよ!」
「変わってるな」彼女は呟いたが、彼にはどうやら聞こえなかったようで、真っ直ぐ前方を見て銃を構えていた。また多量の銃弾が降り注ぎ、彼女は現地の言葉で「こんちくしょう」と口走りながら僅かながらの銃弾をお返ししてやった。どうやら相手は予想以上の多人数らしく、こうなったら上手く撤退する方法を考えた方が良さそうだった。


「お前は?」唐突に彼が言った。
「は?」
「名前!」
 彼女は少し鼻で笑った。両親と別れてから、本当の名前を名乗ったことは無かった。赤十字で手当をして貰った時も、偽名を使った。父親が働いていた研究所が現地の人間から余りよく思われていないことを子供ながらに知っていたので、出来るだけ身元は隠した方が良いと考えたのである。しかし彼は彼女が兼井研究所の関係者であることを知っているのだから、隠す必要も無かった。
「緑」小銃の引き金を引きながら、彼女は言った。途端に撃った何倍もの銃弾が降ってくる。「こりゃ話にならねえぞ」
「撤退だな」彼は言った。「上手く逃げろよ、こんな所で死んでもつまらない」
 彼女は少し笑い、同意を示した。何故か隣の少年に妙な愛着を感じていた。そして同時に自分の中に生への執着が微かに現れたことも感じていた。変な話だな、と彼女は考えた。






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