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あたしは、春香が死んでから少し無口になった。そして、昔の事をよく考えるようになった。あたしと直人と賢治がどうやって生きてきたか。そしてあたし達が出会った春香の事、彼女に出会ってから彼女が死ぬまでの事……。
あたしのお母さんは大学生の時あたしを身籠もった。予定外の妊娠だった。お父さんはその時もう社会人だったので二人は結婚した。看護大学に通っていたお母さんは勉強の妨げになると言って、卒業するまでお父さんと暮らそうとしなかった。ほんの少し膨らんだお腹を抱えて実習に出ようとして、患者さんが倒れてきたら支えられるのかと先生に言われた。お母さんは支えられると言い切った。子供なんか流産したって構わないと言ったそうだ。止める先生方を押し切って強引に実習に出た。赤ん坊だったあたしをおばあちゃんに預け、お乳を搾って冷凍させて四年で大学を卒業した。おばあちゃんは、とても寂しそうにこの話をしていた。まだ、こんなに小さなあんたを預けてねえ。
お母さんがお父さんが事務員として働いていた病院に就職した夏、おじいちゃんが亡くなった。お母さんは独りぼっちになったおばあちゃんに、自分達と一緒に暮らそうと言った。おばあちゃんはおじいちゃんと一緒に過ごして、お母さんや伯父さんを育てた家から離れたくないと言った。お母さんは、おばあちゃんのすぐ近くに住んでいた伯父さんの家の広い広い庭を譲って貰い、四十年のローンを組んでそこに家を建てた。伯父さんの家の庭は殆ど無くなってしまい、犬小屋も一階のテラスの隅に引っ越しさせられた。今はもう居ないあの雑種の犬。
子供の頃のあたしはそれがどういう事なのか全然分かっていなくって、従兄弟の直人や近所に住んでいて、同じ空手教室に通っていた賢治といつも無邪気に遊んでいた。おばあちゃんの家にもよく行った。おばあちゃんの家の庭はとても広くて、大きな木が何本もあった。一番高く迄登れるのはあたしで、高い所が苦手な直人は全然駄目だった。可笑しかったのは賢治で、誰よりもすいすいと登るくせに、木によく居る小さな赤い蟻が大嫌いで、その行列を見た途端に、どんな高いところからでも飛び降りてしまった。たまたま見ていた大人達が骨でも折ったのではないかと慌てる様な高さからも飛び降りた。その大きな木々も、おばあちゃんの住んでいた家も、もう無い。あたし達が中学校に入る年の二月におばあちゃんが亡くなって、家も庭もみんな売られ、大きな木は全部切り倒されてそこは駐車場になってしまった。心臓を長年患っていたおばあちゃんが、自分が死んだら家と土地を売り払ってその代金であたしの家族の住んでいる家のローンを払う様に、と遺言状を書いていたと大分後になってから知った。おばあちゃんがこの町で一番力を持っている「兼伊」という一族の出身だった事も、同じ頃知った。おばあちゃんの遺産がどうなったのか、あたしは知らない。知りたくもない。ただ、悲しいのはあの大きな木が無くなってしまった事。風が吹き抜ける度にざわざわと音を立てていた竹林が無くなってしまった事……。
あたしと直人は、小学校を卒業するまでクラシックバレエを習っていた。その事でよく直人はからかわれていたけれど、からかった相手を賢治が殴るのでそのうち誰も言わなくなった。それでも、さすがに賢治も女の子は殴らなかったので、女子は時々直人の事をからかった。そんな時、直人は顔を真っ赤にして黙って俯いていた。直人は三人兄弟の真ん中で、他の二人もバレエを習わされていたのだけれど、みんなサッカークラブに入ってから止めてしまった。直人もサッカークラブに入ったので止めたがっていたのだけれど、とてもスタイルが良くて踊りも上手だった直人を先生が引き留めたのだ。でも、その先生はあたし達が小学校を卒業する前の日に心臓発作を起こして亡くなってしまった。
中学校に入って、あたしは吹奏楽部に入った。直人と賢治はサッカー部に入った。三人とも、空手は止めた。それぞれの部活動が楽しくて仕方がなかったからだ。あたし達の学校のサッカー部は強く、都大会の常連だった。直人と賢治は、二年生になるとそのチームのレギュラーメンバーに選ばれた。小学生の頃からずっとサッカーをやっていた直人はともかく、中学校に入ってから始めた賢治が選ばれるなんて変なの、とあたしは思っていました。そしてある日その事を直人に言ったら、「お前見た事無いからそんな事言うんだよ。賢治、俺なんかより全然凄いよ。あいつ天才だよ」と言われた。事実、賢治には幾つも有名なサッカークラブから勧誘が来ているようだった。
それに比べ、あたし達吹奏楽部はのんびり活動していた。一応コンクールには出ていたけれど、別に賞を取りたいとかそういう気持ちはみんな無くて、まあ年に一回くらいはっきりした目標を持って気合いを入れるのも悪くないかなという感じだった。あたしは吹奏楽部の子達と仲が良くなって、直人や賢治とはあまり関わりを持たなくなった。学校にすら一緒に行かなくなって、それでも賢治は気軽に声をかけてきたし、直人は相変わらず女子はあたしくらいとしか話せなかった。なまじ見た目が綺麗な物なのだから女の子達が騒ぎ、それが元々恥ずかしがり屋の直人を一層萎縮させた。あたしはちょっと気の毒にも思ったけど、もう子供ではないのだから助け船は出さなかった。ただ横目で顔を真っ赤にしている直人を眺めていた。ちょっと可愛かった。今までも直人を可愛いと思ったことはあったけれど、今までとは少し違う感覚だった。それからしばらくして、あたしはいつも視界の端で直人を追っている事に気付き、愕然とした。
吹奏楽部には春香が居た。可愛いらしい子だった。あたしとクラスも一緒だった。クラリネットを吹いていたが、家の手伝いが忙しくあまり部活には来ていなかった。春香の家はお母さんが看護婦、お父さんが警備員で、二人とも勤務時間が不規則なので、彼女が妹と弟の食事の支度や掃除や洗濯をしていた。大人しいけれど言う事はきちんと言う子で、吹奏楽部の仲間からだけでなく、みんなに好かれていた。あたしも春香が好きだった。彼女はその細い体の中に本当に色々な思いを封じ込めていた。そして、ごくたまにあたしや他の友達にその一部を聞かせてくれた。呟く様に。でもあたしは今は思い出したくない。彼女の言葉を。恐ろしくて。
春香は一年生の二月に死んでしまった。家の隣の駐車場で、夜中に灯油をかぶって自分で火を点けた。その日も、お母さんもお父さんも夜勤で留守だったそうだ。春香の死体が見付かったのは、夜が明けてからだった。いつも穏やかな笑顔を絶やさなかった春香がどうして、とみんなは言う。でも、あたしや吹奏楽部の仲間は知っていた。「今日も部活に行けないの、ごめんね」と言って帰る春香の笑顔がとても淋しそうだった事を……。……どうしてあたしは何も出来なかったのだろう? 大変だね。そんな言葉が何になったというのだろう? どうしてもっと具体的な事をしてあげられなかったのだろう? あたしが子供だから? 分からない。どうして春香は死ななければならなかったのか。どうして。
直人は春香が好きだった。中学生になっても女の子が苦手で、話す事さえ出来なかったけれど、あたしとだけは話せた。でも、春香があたしと一緒にいると、直人は話せなくなった。ぶすっと押し黙ってしまって、一見とても機嫌が悪い様に見えるが、春香が好きなのだとあたしにはすぐに分かった。直人は他の女の子の事はもっと冷めた目つきで見る。あんな目をするのは春香を見る時だけだった。春香が死んだ次の日、直人は頭が痛いと言って学校を休んだ。
賢治は、色んな女の子と付き合っている。付き合っていると言うより、殆どセックス目的の様だ。同じ中学校の人は少なくて、新宿や渋谷に遊びに行って知り合った人と付き合っている。でも、しょっちゅう相手が変わるので、さっぱりあたしには訳が分からない。時々、同じ中学の普通の子にも手を出している。背が高くて、顔もまあまあ二枚目なので、賢治を好きな子は意外に沢山いる。あたしは直人の方がずっと綺麗だと思うし、賢治と付き合う女の子の気持ちはよく分からない。女の子達は直人が無愛想で怖いと言うが、彼は照れ屋なだけなのだ。でも、あたしは黙っている。賢治は良い友達だ。それ以上は考えない。考えたくない。賢治は最近少し、怖い。昼休み、あたしと賢治はいつも一緒に屋上に繋がる階段の所で座っている。賢治は煙草を吸っていて、あたしは本を読んでいる。前はそれだけだったのに、賢治は最近あたしの頬にキスをしてきたりする。賢治の唇は思っていたより柔らかくて温かかったけれど、あたしはいつも彼を全力で押し退ける。
時々、春香の夢を見る。一緒に部活動をしている夢――一体そんな光景が何回有ったことだろう。数える程に違いない――だったり、彼女が淋しそうに帰る夢だったり、お葬式の夢だった事もある。あたしはやたらと泣いている同じクラスの女の子達を見て、どうしてか腹立たしい思いに捕らわれていた。あんた達に何が分かっていたのと思い、それからあたしもきっと春香の事は何一つ分かっていなかったのだと思い直す。分かっていれば、春香は死ななくて済んだはずだ。三月生まれの春香は、十二歳で死んでしまった。彼女の夢を見ると、少し不安になる。そしてそれよりも悲しくなって、あたしは少し泣く。
昨日の晩、あたしがお風呂から上がって部屋に行った後、お母さんがお父さんに言っていた。「素は駄目ね。あの子はあたしより理系が出来るから医者になれるかと思ったけれど、あの程度じゃやっぱり看護婦くらいがせいぜいだわ。仕方がないわね、私の子だもの」と。お父さんは、別に医者に何かならなくてもいい、と言った。お母さんはきつい口調でこう言い返した。あなたは分からないかもしれないけれど、うちの家系で医者の居ない家は、うちだけなのよ。お隣は兄さんが医者だし、直之君も医者になれそうだからいいけれど、うちは素が医者になってくれなきゃ、ずっとこのまま親戚の金を頼りに生きているっていわれ続けなきゃ行けないのよ。お父さんは低い声でこう言った。そんな事、気にしたって仕方がないだろう。あたしもそう思った。でも次の朝、あたしが下りていくと、お母さんもお父さんも、いつもと同じ表情をしていた。
最近、春香のことをよく思い出す。春香はどこに行ったのだろう、と。案外、近くにいる様な気もする。あたしの隣にいる様な気もする。そして、あたしと同じ様に黙って色々な音を聞いている様にも思える。賢治はあたしに「お前になら殺されてもいい」と言った。あいつは、死ぬと言う事がどんな事なのか、分かっていない。あたしはきっと将来看護婦になるだろう。医者にはなれないから、看護婦になる。あたしの周りの大人はみんな病院関係者で、あたしは他の仕事を知らない。栄養士でも検査技師でも構わないけれど、やっぱり看護婦になる様な気がする。看護婦になって、お母さんと同じ様に生きてそして死んでゆく人達と毎日顔を合わせる。でも、時々思う。病院の中に居ようと外に居ようと、死がすぐ隣に在る事は同じではないのかと。生と死の境界線はあたし達のすぐ側に在って、春香は単にそれを跨ぎこしただけの事ではないかと。
春香が死んでから、あたしは自分の隣に境界線を感じながら生きる様になった。ただ一つ分からないのは、生きながら燃えるというのは、どんな気持ちがするのだろうという事だ。どうして彼女がそんな死に方を、線の越え方を選んだのかという事。――でも、あたしはその答えをずっと前から知っていた様に思う。知りながら、目を背けていた様な……。
あの日から、いつもあたしの隣には春香の形をした「死」が居る。あたしはいつでも彼女と手をつなぐ事が出来る。それがいつなのかは分からない。今日なのか、明日なのか……。でもいつも、ベッドに入ると思う。明日こそあたしは、春香と手をつないでしまうのではないかと。
春香は黙って微笑んでいる。いつも穏やかな笑顔を浮かべている。彼女は静寂の中に居る。たったひとりで。
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