なんとなく 予感がしてた こわれてく感じがしてた
身の程もわきまえない 自画自賛を始めていた
のぼせて 図に乗り とりつくシマもない
(B'z/アルバム「BIG MACHINE」収録「儚いダイヤモンド」より)
心身共に無理をして、燃え尽きて自爆して、仕事を辞めなければいけなくなる直前、
ずっと予感がしていた。このままでは倒れる、駄目になる、と。
けれど、同時に頑張っている自分に酔っている自分も確かに居た。
その結果は当然の報いとしてやって来た。
それまで築いてきたキャリアも人間関係も一瞬にして失うことになった。
今になって、どうしてあの時自分の予感に素直に従って行動を変化させることが出来なかったのだろう、
と思う。今となっては、全て手遅れだが。
自分を変えられなかったのはきっと私の弱さで、
でも弱いままじゃ駄目なんだ、と思いつつ、変わる勇気が未だに持てないでいる。(2004)
逃がさないで 逃げないで 胸の痛みと手をつないで
明日を迎えよう
イヤな問題 大損害 避けて通る人生なら論外
生きてるからしょうがない
(B'z「Wonderful Opportunity」/アルバム「IN THE LIFE」収録より)
胸の痛みも嫌な問題も大損害も避けたいし、出会ってしまったなら逃げ出してしまいたい。
……でも、それじゃ駄目なんだよね。真剣に生きる為には、
そういったもの達と向き合わなきゃ、いけないのだ。
生きているのだから。生きていく、というのは、多分そういうことで。(2004.12.31)
肉体のつながりが愛を支えるということは正しいであろう。
肉体の愛のない関係は短期間には燃えうるが、
長い年月を保たせるには哀しさも慎ましさも足りない。
それは、精神を信じ過ぎているということになる。
(曽野綾子「誰のために愛するか」角川文庫より)
これは本当のことだろうな、と思う。
精神的な愛情だけで関係が成り立っている時、
それが時として幻想的であるが故に、ついつい永遠であるかのような錯覚を覚えてしまう。
でも、それは言い方を変えば全く実態を持たないものであるが故に、
意外に短命であることが多い。
浅ましくて、計算ずくめで、利己的で、
そんな肉体関係が絡んだ愛の方が長続きすることを意外に思ってしまうのは、
多分私が精神を信じ過ぎているから、なのだろう。(2005.1.15)
逃げ方を一度おぼえてしまうと、
そればかり巧くなって、
自分で壊せる障害物であっても手を出さなくなる。
自覚しないかぎり悪化していく業病だ。
(若木未生「イズミ幻戦記」第4巻/集英社スーパーファンタジー文庫より)
これが、負け犬、というものなのだろう。
本当の負け犬は30歳を過ぎて独身でも子供が居ないことでもなく、
自分の力で何かをしようという気力を失った人間のことなのだ
(あれ? 「負け犬」は40歳を過ぎた未婚女性のことだったかな?
どちらにしろ、気分の良い言葉ではないので、私は無視している)。(2005.1.15)
日本の若者と、戦闘で傷ついたアフガンの若者……。
いつも比較し、考え込んでしまう。
飽食の挙げ句、「生きがいが無い」などと言って簡単に自殺したり、
奇妙な宗教に入信する日本の若者や、
髪を金髪に染め、鼻にピアスをし奇矯な服を着て得意がっている日本の学生たち。
自分たちの享受しているその平和、
自由を有為なものにしているとは、到底思われない。
(提箸延幸「平和の国の医者だけど」より)
作者は日本の形成外科医だが、アフガンの内戦で負傷した人々を
救護するパキスタンの病院に赴任する。
その作者の日記の一節。
私が自分に与えられている平和や自由を有為なものにしているか、
と考えると、恥ずかしいような思いにしかならない。
せめて何とか社会人として多少なりとも人の、世間のお役に立つような
仕事をさせて頂けているのが救い……だろうか。
私達はきっと、「平和」の本当の意味も、「自由」の本当の意味も、
少しも分かってはいないのだろう。(2004.12.23)
「人間だとか妖怪だとか、そーゆーちっちぇえことはどーでもいいんだよッ。
ただ飯がうまかったんだ。そんだけ!!」
(峰倉かずや「最遊記」第1巻より)
妖怪でありながら、使命を受けた人間である三蔵と共に度をする悟空。
宿屋に泊まっている最中に襲ってきた妖怪に「何故人間の味方をする」と問われ、
その宿の女の子の作ってくれた飯が旨かった、と単純明快な答をする。
……でも、それって凄くシンプルで、とても基本的で、一番大切なこと。
自分の本能、自分の欲求、それは正しい時もあったり間違ってしまっている時もあったりするのだけれど、
それがどんなものであれ、無視をしたりねじ曲げたりすると、絶対にどこかに歪みが出る。
社会的に容認される範囲ならば、出来るだけ自分の欲求に素直に生きたい、と思う今日この頃。(2004)
「人間の聖性の問題でしょう。
時を進めるのに力があろうがなかろうが、
人間が聖なるものだということが認められなければ、
どうして生かすことが美徳なんです?」
(曽野綾子「時の止まった赤ん坊」下巻より)
重度の心身障害者である娘を持つ、小木曽の言葉。
私は精神科の患者さんを前にした時、「人間の聖性」のようなものを感じる時がある。
世間から見捨てられ、家族から見捨てられ、
赤の他人である筈の病院のスタッフに支えられてやっと生きているような患者さんを見ていると、
人間は聖なるものだ、という感情を覚えることがある。
人間そのものの、肩書きや地位や環境や、そういったもの全てを取り除いたところに、
人間の聖性があるのではないか、と。
全てを失った患者さんだからこそ、そのことが強く感じられる時がある。
……だからといって、何かを持っている人に「人間の聖性」が無いわけではないのだけれど。(2004)
人間は、すべて愛され、必要とされ、感謝され、
なんらかの機会を通じて、
人に認められることを必要としているのである。
(G.BURTON/大塚寧子・武山満智子訳「ナースと患者―人間関係の影響―」より)
人は、一人では生きていけない、のだろう。でも、私はこのことを否認したくて仕方がないので、手に負えない。
愛されなくたっていいのよ、必要とされなくたっていいのよ、感謝なんかされなくたっていいのよ、
認めてくれなくなっていいのよ、と。
本当は、愛されたくて、必要とされたくて、感謝されたくて、認められたくて仕方がないくせに。
望むものが手に入らないから諦めたフリをして拗ねている、私は大きな大きな子供だ。(2004)
人間は、何も教えなくとも(事実、教えたくとも教えられないのであるが)、
中心的自分が自分を得ると、自分で自分の生きたい方向がわかり、
試行錯誤しながらG子のように自立的に成長へ向かうことが出来るのである。
(飯田澄美子・見藤隆子編著「ケアの質を高める 看護カウンセリング」より)
大人でも成長が出来ていない時は、きっと「中心的自分」が自分を得ていない状態なのだろう。
私はどうだろう?(2004)
「人間は悪いことをしてもいいんだ。
というか、悪いことをせざるをえないこともある。
その一言を言えない為に、人間は却って、
自分自身も、自分の尊厳も失うことになるんだけどね」
(曽野綾子「時の止まった赤ん坊」下巻より)
主人公・茜が修道女として働くマダガスカルに短期出張でやって来た、
日本人サラリーマン・小木曽の言葉。
彼は日本とはあまりに異なるマダガスカルの現実に触れ、
また、シスターである茜の影響も受けて、やって来た当初とは少しずつ変わってゆく。
その小木曽が日本に帰る直前、茜との最後の会食で語った言葉。
自分自身の中の悪を認めないが為に、自分自身や自分の尊厳を失うなんて、
何て愚かで何て恐ろしいことだろう。偽悪ぶる必要も無いが、
しかし自分の中の悪から目を逸らさず、真っ直ぐに見詰めることが必要であるように思う。(2004)
「ねえ、もう、どうしたらいいの? どうしたいの? わかんない!!」
駄々っ子のように聖が悲鳴をあげた。
癇癪をおこすのは、彼女も弱いからだ。
元来の、生きていく力が足りないのだ。同じだ。
(若木未生「イズミ幻戦記」第6巻/集英社スーパーファンタジー文庫より)
癇癪、とは本来子供が起こすものだ。
そして、子供が起こす分には正常な反応だが、
大人が起こすとそれは、時としてその人の人格の未熟さの現れになる。
人格が未熟だ、ということは、生きていく力が不足している、ということとニアリーイコールだ。
弱さ、なのだ。
私は普段は我慢強い方だが、突然「キレる」ように癇癪を起こすことがある。
生きていく力が足りないなあ、と思う。(2004.12.31)
はかなくはないですか 恐れたりしませんか
淋しくはないですか 繰り返して行くことは
淋しくて死にそうだと答える
だから走ると答える
(篠原美也子「満月」/アルバム「満たされた月」収録より)
満ちてはまた欠けてゆく、ということを果てしなく繰り返す満月に問いかける言葉は、
全て自分に返ってくる、その返ってきた問いかけに答えている部分の歌詞。
淋しくて死にそうな時、誰かに縋ったり、
本当に死んでしまったりしてはいけない。
だったら、走った方がいい。
全力疾走しているうちは、ひとりでも淋しさを感じないから。(2004)
「箱、もういらないから。
だから、名前を呼んでよ。
オレを呼んでよ」
(オオノサトシ「HEAVY NOVA」Plantationより)
以前、「買ってやる」と約束していた箱は、もう要らない、
と、人間の脳を「生体部品」として使っている人工生命体・
ジャック・ノーは言う。
その代わり、名前を呼んでくれ、と。
この願いは、「HEAVY NOVA」という作品を貫くテーマの一つだと私は
思っているのだけれど、
実はこれは人間の根本的な欲求に言及している台詞だと思う。
相手が自分を呼んでくれるかどうか、というのは、
とても重要な問題だ。
自分の存在を必要としてくれるか、ということ以外にも、
どうやって呼んでくれるか、も。
どう呼ばれるか、もそうだが、相手をどう呼ぶか、ということも。
ちなみに私は下の名前に「さん」をつけて呼ばれることが多いのだが、
これは実はとても嫌いな呼ばれ方。でも、いつもそれを言えずに、悶々としている。
(2005.2.5)
honey, あなたの肌を触りたくて
僕はついふしあわせなフリをしちゃうよ
(B'z/アルバム「LOOSE」収録「砂のはなびら」より)
これは、私もよく使う常套手段(笑)。
取り敢えず、不幸なフリをしていれば、「同情」という名の関心を引くことは出来る。
更に、日本のような大半の人間が豊かな社会では、
「不幸せ」な人を見捨てると人は罪悪感を感じるので、
なかなか「不幸せ」な人は見捨てられない。
下手に「幸せ」であるより、「不幸せ」な方が、取り敢えずは見捨てられない。
特に、恋愛においては。
でも、こういう方法を使っていると、いつの間にか嘘だった筈の「不幸せ」に、
自分でも気付かないうちに本当に捕まってしまっていたりするので、要注意。
っつーか、「フリ」というのは大きな意味では「嘘」なので、
あまり多用するのはどうかと個人的には思う(でも使っているのだけれど)。(2005.1.31)
バブルがはじけて、まじめに首くくるより、
不真面目に夜逃げすることの方がどう考えても人間的である。
(曽野綾子「近ごろ好きな言葉」より)
私は自分では不真面目だと思っているのだが、
周りに言わせるとかなり真面目な人間らしい。
故に自殺未遂してみたり、直ぐに死にたくなったりするのだが、
だったら逃げ出す方がよっぽど人間的で、
そろそろ自分にそういう方法を許してやりたい、と思う。(2004)
必要以上に偽善ぶることも
偽悪ぶることもない
一体誰にどんな期待をされているつもりか
誰に何の責任があるつもりか
思い上がりも甚だしい
(江月響「夜の海」より)
素の自分のままで居ることが恥ずかしかったり悔しかったり嫌だったりして、
格好をつけて良い人ぶってみたり、逆に悪ぶってみたりすることがある。
でも、自分がありのままの自分ではなく居られる、というのは幻想に過ぎない。
自分がもしかしたら違う自分になれるのでは、と思うこと自体、
自己を過大に評価した思い上がりなのではないか、と考えることがある。
結局、自分は自分にしかなれないのだ。どれだけ偽ったとしても。(2004)
人はえてして自分の不幸には過敏なものです。
小さな棘が指に刺さったくらいのことであっても、
その10倍20倍にも痛みを感じます。
不幸を実感するのはたやすいのです。
日野原重明「生きかた上手」ユーリーグより)
私はちょっとしたことでも大袈裟に騒いでしまうタイプで、
多分、人よりも自分の不幸に過敏なのだろうと思う。
そして多分、人よりも幸せに鈍感なのだろうと思う。
それは言い換えればこれまで恵まれ過ぎていたから、
幸福に鈍感になってしまった、ということなのかもしれないけれど、
それはとても怖いことだと思う。
あんまり頑張り過ぎる必要もないだろうけれど、
小さな幸せに対して敏感になりたいな、と思う今日この頃。(2005.1.15)
人に迷惑をかけない以上は、
どんなことをやってもいいんじゃないかと思いますよ。
失敗にもいろんな失敗があると思いますけど、
大きな失敗をしなければいいんです。
そのためには小さい失敗をしておく。
(週間アスキー2004年11-16号/「進藤晶子のえ、それってどういうこと?」第195回
柳井正の発言より)
失敗をすれば、誰かに迷惑がかかる。
でも、大失敗でなければ、それ程大した迷惑はかからない。
小さな失敗なら、周りも許容してくれたり、フォローしてくれたりする
(こともある)。
小さな失敗を恐れずに経験し、大きな失敗を回避する方法を覚えて、
人に迷惑をかけないようにすればいいのかな、と思う。(2005.1.15)
人を信じて死ねることは
恵まれていることだと思った
(江月響「Another Day」STRANGE ANIMALより)
致死性の「カビ」に感染した若い女。
彼女は好意を抱いている男に、自分の
死体の処理を依頼する。そして男は、彼女の予想に反して、
その依頼をあっさりと引き受けるのだった。
明日の朝、目覚めることの無い自分をはっきりと認識しながら、
しかし彼女は彼がやって来ることを確信している。
そんな女の、モノローグ。余計な付け足しは要らないだろう。
これは、本当に幸せなことなのだ。誰かを信じて死ねる、ということは。
願わくばこんな風に死んでいきたい、と思うけれど、
きっと無理なんだろうなあ(苦笑)。(2005.1.15)
表現の基本は、技術である。
自分の中の情報を正確に他者に伝えること、それが基本だ。
(村上龍「@死なないことA楽しむことB世界を知ること すべての男は消耗品である。Vol.4」幻冬舎文庫より)
これは表現の基本の、多分その一段階上の話だと思う。
私が辛うじてまともに自我を排した表現の手段として使えるのはピアノくらいだけれど、
ピアノを弾く「技術」を身に付けるのは或る程度簡単だ
(そんなに簡単でもないけれど)。
その前の段階として、ピアノの「音を出す」ことが必要なのだ。
ピアノは取り敢えず鍵盤を押せば音が出ると思われているけれど、
それは大きな間違い。
そして、更にその前の段階として、
自分の中に「うた」がなければならない。
表現するものは思想でもメッセージでもない。
ただ、シンプルで極めて原始的な「うた」なのだ。
美しい「うた」だけを求めて、多分私はピアノを弾く。
上の文章は、表現に対する第三者が居る時の基本、だろう。
うつくしいものがみたい、それだけなんだよ、本当は。(2005.3.21)
「……平野さん。
生きとってくれて有り難うな」
(こうの史代「夕凪の街」の乃野屋より)
10年前の原爆で家族を失い、街を失った平野皆実。
この台詞を言った打越に愛を告白されても、
生き残ってしまった後ろめたさから、一旦は逃げ出してしまう。
その皆実に向かって平野が言った言葉。
何て、愛情に溢れた言葉だろう、と思う。
でも、ふと気付くと、昔誰かにこう思ったことがあった。
あたしと出会うまで生きてきてくれて、生まれてきてくれて、有り難う、と。
……結局、その後私はその気持ちを忘れて、その相手とはとんでもない泥沼を演じることになってしまったのだが……。
でも、やっぱり、忘れちゃいけない素直で素朴で素敵な、愛の気持ちなのだろう。(2004.12.31)
不安はわたしたちがサバイバルしていくために必要だったから、
感情として備わっているだけで、
不安感がなければわたしたちはものを考えようとしない。
危機を察して不安感を覚えて、
わたしたちはやっとそれに対処する方法を考え始める。
(村上龍「ダメな女」光文社文庫より)
不安など無ければいいのに、と思う時がある。
私は心配性で、ちょっとしたことでも直ぐに不安を覚えるので、
そのことがとても嫌だった。
でも、この文章を読んで、不安には有用な面もあるんだな、ということに気付いた。
これからは、不安を疎んじるのではなく、不安を有効に活用していきたい、と思う。
不安とお友達になれれば、……いいような、それも何だかなあ、というような……。(2005.1.15)
「冬みてえに生きても、来たじゃん、春。
なあ、シンゴ」
(日本橋ヨヲコ「極東学園天国」第3巻より)
お互いに反発し合い、背を向け合った後にリーチが
シンゴに満開の染井吉野の下で語りかけた言葉。和解の瞬間。生きていれば、またいつか春は来る。
そう信じて生き物は生きてゆくのだろう。人間も。永遠に続くように思われる凍てつく冬の向こうにも、
春はきっと待っている、……そう信じる力が、ひょっとしたら生てゆく為には必要なのかもしれない。(2004)
「フン‥どうせお前のこったからしょーもないこと悩んでんだろ。
お前が思ってるほど他人はお前の事気にしてねーよ。
中途半端にプライドあるからそーなんだよ」
(日本橋ヨヲコ「バシズム」収録「ノイズ・キャンセラー」より)
どうか、私を見ないで。あなたは、いったいどんな風に私を見ているの?
そんな風に気になって、気になって、どうしようもないのだけれど。
でも、中途半端なプライドなら、むしろ、捨ててしまった方がずっといいのだ。(2004)
閉鎖的で安楽な日本を出ること、
しかも悲壮な決意とともに出るのではなく、
状況を楽しみながら外へ出ること、
それだけが「日本の限界」の外へ出る唯一の方法だと思う。
(村上龍「寂しい国から遙かなるワールドサッカーへ」ビクターブックスより)
どうも最近、人生のキーワードは「楽しむ」なのかな、と思い始めている。
「面白がる」と置き換えてもいいかもしれない。
勿論、状況的に楽しむことや面白がることがどうしたって不謹慎にしか
ならない場面もあるから、そういう場面では慎むべきだけれど、
そういう時以外は、人生は楽しんだり面白がったりしているのが一番いいような
気がしている。
何だか結局、それが一番、自分も周りもハッピーなんじゃないか、と。
私は「日本の限界」の外に出ようなんてこれっぽちも思っていないけれど、
でも最近ちっとも海外に行っていないので、
また行きたいな、と思っている。
違う文化に体ごと飛び込むのは、とってもスリリングで刺激的で、素敵なことだから。(2005.2.5)
「僕たちは、彼らにとって空気か透明人間みたいな感じなんだな。
隣の星からの透明人間よ。
世界が違う、宇宙が違う、という表情をしている。
悪意もない。だからせめて悪意でもほしい、という感じね。
しかし悪意をもってもらうなんて途方もない願いだという気がするね」
(曽野綾子「時の止まった赤ん坊」下巻/新潮文庫より)
マダガスカルに短期赴任している日本の商社マン、小木曽がマダガスカル人について語る場面。
人間にとって一番辛いのは、存在を無視されることだ、と言われている。
まだ、悪意を持って貰える、ということは、存在自体は認めて貰えている、ということ。
だから、悪意を持って貰えている人間関係は、まだ捨てたもんじゃない、のかもしれない。(2004)
僕は攻撃性をなくしてしまうことは絶対にできないと思います。
初めから全面的に認めるほかないわけで、
それをどう抑制するかということしかないですね。
(村上龍・坂本龍一「EV.Cafe」より河合雅雄の発言)
攻撃性、というのは出来れば認めたくない自分の一面だ。
でも、それを消そうとするのは愚かな闘いで、
だったら最初からその存在を認めて、その上でそれとどう
付き合っていくか、を考えるしかない。
サルの研究をしている河合氏の言葉だからこそ、
重みのある発言。(2004)
「僕はさっき感心して見てて、
アフリカの宣教というものは裸足でなけりゃできない、
と思ったね。
ズボンに泥がつくとか考えてちゃ、とても活動できないですよ。
裸足で生きられるなら、別に靴の補給を心配しなくてもいいんだしね。」
(曽野綾子「時の止まった赤ん坊」下巻/新潮文庫より)
物を持ち過ぎて、却って不自由になる、ということがあると思う。
持っていなければ束縛されないのに、
何かを持ってしまった為にそれが手放せなくなる。
……それは必ずしも物だけに当てはまるわけでもないと思うけれど。
でも、人間は生きていれば必ず何かに縛られるもの。
それをどうやって自分なりに受け入れていくか、なのだ。(2004.12.28)
「欲しいんだろ? ガマンすんなよ」
(日本橋ヨヲコ「バシズム」収録「ストライク シンデレラ アウト」より)
自分の欲望に正直に生きて行くことが、案外まっとうな生き方なのかもしれない。
わたしは物凄くわがままなくせに自分の望むものを真っ直ぐに追いかけることが本当に苦手で、
それが出来る人は眩しくて眩しくて仕方がない。純粋な憧れを持つことが出来ればまだいいのだろうけれど、
そういう人を相手にひねくれ、拗ねるのでどうしようもない。(2004)
細い腕ひとつで世界をくつがえそうと夢みるのは、
純粋さの特権だ。
いずれ少しずつ我が身の限界を悟り、
未来をみる瞳の輝きを曇らせ、
できることにしか己を捧げられはしないのだと知ってゆく。
大人になるとはそういうことだ。
(若木未生「イズミ幻戦記」第4巻より)
自分に出来ること、出来ないことをきちっと理解して、
自分に出来ないことは仕方のないことだと割り切って、
その代わり自分の出来ることは全力でこなす。
それが本当の大人じゃないか、と思う。
ちなみに私は自分の出来ないことまでやろうとしてしまう困った大人。
成長する可能性がまだあると言うべきか、
いい年をして、と言うべきか。(2004)
「本当に面白いものが描けた時は、うぬぼれじゃなくわかるものよ。」
(日本橋ヨヲコ「G戦場ヘヴンズドア」第3巻より)
不思議と、これは判る。何故か、これは自分で判るものだ。
どうしてだろう……。やっぱり、一番最初の読者は自分、ということなのだろうか。(2004)
ほんとうに、「性は生」だということが、よくわかりました。
そういうものを見ている瞬間だけは、
人間、死ぬことなど考えないのです。
おもしろいものですね。
(曽野綾子「近ごろ好きな言葉」より)
人間が生きている限り、「性」からは逃れられないもので、
それは幾つになったところで変わりは無い。
でも、特に日本人は「性」に蓋をして、見ないふりをすることが多いように思う。
病棟で働いていたりすると、やっぱり「性」に直面せざるを得ない場面に出会したりする。
というか、「性」を無視して看護は出来ない、と私は思う。
「性は生」とまでは私は言わないけれど、
それでももうちょっと「性」を当たり前に語ってもいいのではないのだろうか、
と最近思う。それは半ば遺伝子に強制的に組み込まれているものであって、
恥ずかしいものでもなんでもないのだから。(2004)
本当の強さというのは、
世界中でただ一人自分が異なっていても冷静でいられるということではないか、
と私は考える。
そして、本当は世界で同じ人間は決していないのだということを冷静に見つめられる力、
自分自身を一人の人間としてきちんと見つめることのできる力というものが、
自分の本当の「強さ」になっていくのではないだろうか。
女子高生ファッションブーム(制服を着ること自体がお洒落であるかのような)が始まっていた高校時代、
皆が揃ってルーズソックスを履き出すのが嫌で、揃って白いシャツを着始めたのが嫌で、
敢えて短い靴下を履き続け、色物の(柄物ではない)シャツを着続けた高校生の頃、
倫理の授業で書いたレポート。
受験の倍率マジックで進学校に滑り込んだ私は受験戦争なんかも大嫌いで、
高校3年生なのに何故か受験には何の役にも立たない倫理を選択していた
(その授業自体3年生を対象にしていたのに最初から「受験の役には立ちません」と言い切っていて、
それはそれで清々しい潔さだったと思う)。
卒業アルバムに残っている最前列で楽しそうに授業を聞いている青いシャツを着た自分が、
最近ではひどく遠い存在のように思われて仕方がない。
ちなみに卒業してからその高校の教師に会う機会があり(この倫理を教えていた教師ではなかったが)、
「あの頃はクラスに2〜3人絶対ルーズソックスを履かない子が居たんだよ。
今はそういう子は居なくなっちゃったもんなあ。
ああいう子が居ることが大切なんだけど……」
と言っていたのが印象的だった。(2004)
「本音が見えないということは実体がないということだ」
(日本橋ヨヲコ「極東学園天国」第2巻/講談社より)
本音が見えない人を知っていた。
何を訊いてもあやふやな答えしか返ってこなくて、
何を考えているのかよく分からなかった。
勿論それは私に本音を話さなかった、という部分もあったのだろうけれど、
自分でも何をしたいのか、もっと言えば、何をしているのかさえ
分かっていないような時があった。
それは、乱暴な言い方をすれば、「実体がない」ということ、
だったのかもしれない。
でも、生きていれば、必ず結果という現実を突き付けられて、
嫌でも自分が何をしたか、くらいは分かるから、大丈夫。
かく言う私も、自分が何をしているのか分かっていないことも多いのだが……。
もしかすると、私も半分幽霊の様な実体の無い存在、なのかも、しれない。(2005.2.5)
「毎日の生活にどうやら困らなければ、病気ではないんですね。
ここの人たちにとっては」
(曽野綾子「時の止まった赤ん坊」下巻/新潮文庫より)
マダガスカルで助産婦として働く修道女・茜が出会った脚の湾曲した少女について語る場面。
日本では、些細な異常――例えば生活にそれほど出ないものでも――問題にされ、
それを持つ人は大いに悩むことになる。
でも、人間の基本はここにあるのではないか、と思ったりもする。
「毎日の生活に困らない」。
忘れがちな、でもとても大切な、シンプルな原則だと思う。(2004.12.31.)
前にも言ったようにどの夫婦もどちらもどこか片輪なのだ。
自分を棚に上げて、相手を非難しても始まらない。
充分にいたわってもらえばいい。
そのかわり、感謝を忘れないことである。
私のようなものを、ようこそ貰って下さいました、という思いがなければ、
夫婦は続いて行きにくい。
(曽野綾子「誰のために愛するか」角川文庫より)
本当は、あたしみたいのを相手にしてくれて有り難う、
最初は、そう思っていた筈なのに、いつの間にか、
あれもしてくれない、これもしてくれない、と不満がつのっていることに気付くことがある。
そして一番恐ろしいのは、いつの間にか感謝まで忘れてしまっていることだ。
忘れないようにしておきたい言葉である。(2004.12.31)
「負けた気ンなってんじゃねーぞ、ばーろォ!
こんな負け方俺はみとめねぇぞ!!
負けるにしても見事な負けっぷりってもんがあるだろが。
しがみついて、くらいついて、
みっともねえくらいあがいてから負けろよ!」
(西山優理子「Harlem Beat」第21巻より)
高校バスケット界の王者・金沢北に挑む、
成り上がり都立高校・上南。
しかしその力の差は圧倒的で、上南のメンバーは勝利を諦めそうになる。
その時、ベンチから飛んだ声が上記。
これを叫んだガンちゃんはかっこいいプレーヤーではない。
いつもタイミングを外してしまって、努力が空回りする。
だけど、そんな彼が叫んだからこそ、この言葉は重みがある。
「見事な負けっぷり」。忘れずにいたい言葉だ。(2004.12.23)
「負ける顔でいる奴らに勝のなんて簡単だもん。
――俺もう、負けるつもりないから」
(峰倉かずや「最遊記」第9巻/ENIX)より)
勝負に挑む時、勝つ可能性を信じていない人間は必ず負ける。
自分が負ける、と思っている人間は必ず負ける。
勝負に挑むならまず、勝つつもりで挑まなければならないのだ。
それが例えどんなに勝ち目の無い戦いであっても――、
いや、むしろ勝ち目の無い戦いほど、
どうやったら勝てるか智恵と努力と悪あがきの限りを尽くさなければならないのだ。
(2004.12.24)
負けるつもりで走り始めるアスリートはいないだろう
そして勝てるあてのないゲームが今日も待っているだろう
光の陰に闇が見えたら それを勇気と呼んでいいのかもしれない
それを勇気と呼んでいいのかもしれない
(篠原美也子「秒針のビート」アルバム「種と果実」収録/より)
勝負を挑む以上は、勝つつもりでやる。
でも、勝てる見込みの無い勝負をしなければいけない時も有る。
目の前には光溢れる舞台が待っている、勝つつもりでやるけれど、
でも勝算が無いことも分かっている、そんな舞台が。
そこで光の陰にひっそりと佇む闇、その存在を知って、心に刻んで、
それでも勝負に挑み続けることが、勇気、なのかもしれない。
人生はどうしようもないことで満ち溢れている、そのやるせなさを歌いながら、
決してその人生を投げだすことはしない、「種と果実」はそんな姿勢が詰まったアルバムだ。(2005.1.13)
まともな女は、しょっちゅう男を取り替えたりしない。
道徳的に一人の男をずっと好きでいろ、というわけではない。
一度かけがえのないものを見つけたら替わりはそう簡単にいないはずだ
と思うだけだ。
(村上龍「ダメな女」光文社文庫より)
そうなのだ。かけがえのない男に出会って、そして惚れてしまったら、
その恋は簡単には捨てられない。
例え上手くいかなくても、絶望的でも、どれだけ辛くても。
世の中には、あ、上手くいかないな、と思ったら、
すっぱりその恋を捨てて新しい恋を探せるタイプの女も居るけれど、
私は駄目だ。本当はそうした方が身軽で自分も相手も楽なのだろうけれど、駄目だ。
かけがえのない人だ、と感じてしまったら、もう後戻りが出来なくなってしまう。
そして勿論自分は山ほど傷付いて、惨めな思いも辛い思いも沢山沢山して、
相手にも沢山迷惑をかけて、それでも、そう簡単に替わりは、探せない、のだ。
自分でも愚かだなあと思うけれど、村上龍的感覚では、一応「まともな」女……なのかもしれない
(自信は無いが)。(2005.1.30)
「見せられないもんなんか描いちゃダメだよ。」
(日本橋ヨヲコ「G戦場ヘヴンズドア」第2巻より)
楽しみだけに書く(描く)、という方法もあるだろう。
しかし、他人に見せられない作品に意味があるのか?
意味が無くはないと思うけれど、だけれど、
他人の目に晒す勇気が無いものなら、どこか深くに誰にも見付からないように
ひっそりと隠しておかなければならないのだ。
ましてやこの台詞はプロの漫画家を目指す町蔵に向けられたもの。
プロの創作者を目指すのならやはり見せられないものなど、
創り出してはいけないのだ。
そしてアマチュアであっても、他人の目に晒す場所に出す作品であれば、
それなりの覚悟を持つ必要があるのだろう。(2004.12.23)